文芸スペース

ネット上に浮かぶ抽象的な文芸空間です。主に、読書のことについての文章が浮遊しています。

Legendre形式

楕円曲線ルジャンドル形式についてまなんでいる。

複素数体は、標数ゼロで代数閉体だから

複素数体上の楕円曲線は、ルジャンドル形式で表すことができる。

ルジャンドル形式で表した楕円曲線についてはj-不変量を求めることが簡単だし、1つの数によって特徴付けることが可能だからわかりよい。

複素数体上の楕円曲線、について次のゼミでは発表するから、それを学んでいる。

なかなかまだ腑に落ちていないところ多くて困る。まぁ、ゆっくりやっていきたいと思う。そんなにゆっくりやってる時間もないかもしれないのだけれど。

おわり

Legendre形式

楕円曲線ルジャンドル形式についてまなんでいる。

複素数体は、標数ゼロで代数閉体だから

複素数体上の楕円曲線は、ルジャンドル形式で表すことができる。

ルジャンドル形式で表した楕円曲線についてはj-不変量を求めることが簡単だし、1つの数によって特徴付けることが可能だからわかりよい。

複素数体上の楕円曲線、について次のゼミでは発表するから、それを学んでいる。

なかなかまだ腑に落ちていないところ多くて困る。まぁ、ゆっくりやっていきたいと思う。そんなにゆっくりやってる時間もないかもしれないのだけれど。

おわり

局所化

数学の自主ゼミをしたので、復習する。

局所化は、代数的な意味においては、分数を付け加える、という操作である。

局所化、という言葉と、分数、という言葉が結びつけば、もはや、局所化についての理解は終わったも同然である(というのは言い過ぎだろうか?)

局所化には、2つの種類があると、自分では勝手に思っている。

イデアルを使う方法と、べき乗を使う方法である。

今回は主に素イデアルを使う方法の方を学んだ。

局所化で大切なことは、局所化する前とした後の素イデアルの対応関係であると思う。

今回証明した主張の各々に、その対応関係に関する事実が使われている。

今回証明した事実は以下である

局所化する前の環の、積閉集合と交わりを持たない素イデアルが、局所化した後の環の素イデアル全単射で、包含関係を維持して、対応する。

この、包含関係を維持する、ということが極大性を示すときに、有効である。

次に、デデキント環の局所化は、再び、デデキント環になる。

分母を付け加えても、ネーター性は壊れないし、整閉性も壊れないし、上の素イデアルの対応の話から、素イデアルは極大イデアルで有り続ける。

そして、デデキント環の素イデアルによる局所化は離散付値環になるし、そうなるのはデデキント環のときに限る、というデデキント環の特徴づけを与えた。

いろんな素イデアルによる、局所化全てのインターセクション(共通部分)は、元のデデキント環である、つまり、

「どの素イデアルでも割れない数は、まぁ、1でしょ」という主張が効いた。

最後に、代数幾何学との関連として、ザリスキ位相の開集合上での切断、の話をした、あくまで数論的に。

ザリスキ位相というのは、古典的には、多項式の零点集合を閉集合と定める。

多項式の零点集合の補集合が開集合だ。

これをイデアル論的観点から見れば、あるイデアルを含むような、つまりは、割るような、素イデアル全体が閉集合である。

あるイデアルを割るような素イデアルは、有限個である。いや、まあ、無限個かもしれないけど、まぁ、有限と思ってもよい。まあ、今はとりあえず、有限個と思おう。

そうしたとき、その有限個の素イデアルを除く全ての素イデアルが形作る集合は、ザリスキ位相の意味合いにおいて、開集合である。

つまり、有限個の素イデアルを除いた全ての素イデアルで、ぶわっと局所化した環は、開集合上の切断になっている、ということを意味する、と言って差し支えない。

部分的な切断である。

局所というには広めな局所、的な切断でたる。

大域切断と局所切断を比較する、というのが、最大のトピックであった。

大域切断→局所切断→離散付値環の有限直和→大域イデアル類群→局所イデアル類群

という完全系列が現れたのは、すごいことだと思う。

うーん、うーん、うーん。

代数幾何をきちんと学んで行きたいと思う。

だいたいこんなことをした。

おわり。

1月2日 なりたい自分をイメージ

賢い人が世の中にはたくさんいる。

僕が今している勉強を、僕より若い人が、僕より進めていたりする。

そういう事実がある。

まあ、正直、それは仕方がない。

その人の進捗具合などを睨んで見張っていても、僕の学習は進まないし、研究も進まない。

卑屈になるだけだし、時間の無駄である。

ゆえに、まぁ、はっきり言って、無視すればよい、そんな人間は。

そんな賢い人間は。

いや、そういう人たちの、進捗具合みたいな、個人的なものは、無視すればよい。

妬んでも、自分の学習も考えも進まない。オーケー。

自分の目の前の、わからないことに対してきちんと向き合っていこう。

ハーツホーンの代数幾何学、ノイキルヒの代数的整数論、シルバーマンの楕円曲線の算術、

この3つをなんとか、大学院時代に読み切ってしまいたい。

これが目標。十分だ。むしろ、、大変だ。

さて、もっと自分のしたいことを、なりたいこと状態をイメージしよう。

したいことを明確にする、というのが大事だし、かつ、したいことを具体的にイメージする、ということが大事だ。

毎日、自分の趣味を1つは行いたい。

つまり、1日に最低(最低を込めておこう)3時間くらいは

自分の時間が欲しい。

1日10時間は他者のための時間、というのでよい。たぶん。

できたら、毎日、汗をかきたい。身体を動かしたい。身体を鍛えたい。なんのために?

山に行くため、かっこよくあるため、精神衛生のため。

「よし、ランニングしよ。あ、○○ちゃん(私の奥さん)、ランニング行こ」

読んでいた本を、しおりを挟んで置いて、「オッケー」

たったった…

ふー

一緒にお風呂に入る

奥さんの女の身体を、ランニングで引き締まってハリのあるからだを、眺める。

からだを洗ってあげる。

滑らかに洗ってあげる。

首元などを舐める

奥さんは僕の睾丸を洗う

おっと、、、まずいな、願望が妄想になってしまった。

しかし、これは僕の願望なのだ。

奥さんと一緒にお風呂に入りたいのだ。

❶一緒にお風呂に入ってくれる奥さんを見つける

さて、次に、

僕はブログに何を書いているんだろう?笑

えー、はい、なんやっけ。

そのためには、わりに、会社に入らないといかんと思う、他の人にとってはそうでもないのこもしれないけれど、僕にとっては、とにかく、それしか今のところは思いつかない。

あるいは、思いついても実践する手立てがよくわからないものばかりだ。

まず、会社に入ってみればよい。

それで失敗したら、退職すればよい。

❷5年間くらいは過ごせそうな会社に入る

❶のための❷

そして❷は僕の生活を経済的に、親と独立的に支えてくれる。これはグッドだ。

そして、自分で生活をアレンジする時間を与えてもらえる。

考える時間ができる、様々なことを。

工夫する時間、行動する時間ができる。

なんにせよ、社会に出る、ということが、今の僕にとっては、それなりに少なくない意味を持っていると、思う。

心に、そういう気持ちがある

よし、❶と❷が決まった

オーケー

つづく

生きる意味

生きる意味について、考えがちである。

生きる意味を求めがちである。

自分の納得できるここに生存している意味を反省しがちである。

せっかくこの世に生まれたのだから、何か、せっかくこの世に生まれた甲斐のあることをしよう、それだけをしようという気持ちになりがちである。

僕はせっかく天から命を授かり、エネルギーを持ち、この地球に生まれたのだから、

このエネルギーや生命を無駄にしないよう、有効に燃やせるよう、無意味にならないよう、行動、活動しないならば、

さっさと死んでしまいたいし、永く生きてる意味もあんまりないし、飯食ってる理由も、寝る根拠も、頑張る目的も、よくわからないから、それらをやめたい。

てか、なんなら別にやめてしまってもいいのではなかろうか、と自然に思う。(欲がなさすぎるのだろうか?)

目的、理由、、そういうものに僕は踊らされがちだし、強迫的に過ぎるし、哲学的すぎる。

自殺と仲良しだし、快楽を避けがちだし、苦悩や修行を好みがちである(さっきから、がちがちいいがちである)。

僕はそれで、数学という活動というものを得た。数学は人生の目的になり得るし、生活の指針になり得るし、生きる意味になり得る。

そして、生活は充実する。

だから、数学は私の性格の傾向(私がなりがちなこと)の処方箋として非常にいい機能を果たす。

数学は十分に哲学的だし、かつ科学的だし、美しいし、修行的な側面は中々に強いし、進化していくし進歩するし、そして神秘的でもある。完璧である。完璧だ(完璧やん!)

し か し

1つ文句があるとすると、なんで、社会的に数学は広まってないねん!なんで、こんなに素晴らしいものが、世間に一般に認知を受けてないねん!なんで、知ってても複素数体までやねん!なんで複素数体を入力しようとして、ひらがなから漢字に変換するとき、予測変換の1番上に複素数体がないねん!

なんでやねん!!社会はなんのためにあんねん!!

そう。

私の生きている意味と社会のある意味が、どうも、一致していない。

2018年に向けて

2018年がもうすぐやってくる!

新年だ!


新年というのは、年が生まれ変わることだ。新年は新しいことを始めるのにいい機会だ。新年の持つ「新しいことをはじめやすくする」という性質を僕は好む。


それで、では何を始めるのかというと、僕はブログを始める。このブログだ。


僕にとって2018年は、自分の人生を決定する大きな選択を迫られる年になる。


僕は今、23歳の大学院修士一回生である。微妙な時期だ。この時代、この社会状況に生きる具体的な僕にとって、来年は間違いなく、何かの分水嶺になる。軽くない意味を持つ年になる。間違いない。僕はそう確信している。


おおざっぱな選択肢は博士課程に進むのか、就職をするのか、はたまた他の選択肢を選ぶのか、ということがある。形式的だ。


自分が何をしたいのか、自分は何をしていると楽しいのか、そういうことに自覚的になり、よりよい道を選びたいと思う。普通だ、普通の感情だ。


そこで僕は、「自分の経験や感情や価値観や考えを整理する」ということを1つのテーマとしてこのブログを活用したい(テーマは他にもある)。


そしてできるだけ、人が読んでも面白いように書く。


こういうテーマでひとまず、このブログをはじめてみたい。後でまた変わるかもしれない。ほんとはただ、文章を好き勝手に書く場所が欲しかっただけかもしれない。


この間、自己分析(自分の性格や適性や欲望に自覚的になるための行為)として、自分史を書いたときに気づいたことだが、僕は「かくこと(書くこと、描くこと)」に向きづけられた人間である。宿命的に書くことに関心があり、描くことに重きを置き、かくことによって最も効果的に自分を表現するし、そうすることが好きな人間であることが判明した。


だから、いろいろな思いが書くことに詰まっている。もちろん、そういう人は多いだろう、そして僕もそうなのだ。だから、このブログという書き物にも、一筋縄でゆかない思いがある。ゆえにテーマも、いくつかある。


だからもしかすると、まとまりのないブログになってしまうかもしれないが、そういうことは試行錯誤を繰り返して、どんどんと洗練して行こうと思う。まずは、書くことだと思う。書きます。ブログ 始めます。


以上。