生きる意味
生きる意味について、考えがちである。
生きる意味を求めがちである。
自分の納得できるここに生存している意味を反省しがちである。
せっかくこの世に生まれたのだから、何か、せっかくこの世に生まれた甲斐のあることをしよう、それだけをしようという気持ちになりがちである。
僕はせっかく天から命を授かり、エネルギーを持ち、この地球に生まれたのだから、
このエネルギーや生命を無駄にしないよう、有効に燃やせるよう、無意味にならないよう、行動、活動しないならば、
さっさと死んでしまいたいし、永く生きてる意味もあんまりないし、飯食ってる理由も、寝る根拠も、頑張る目的も、よくわからないから、それらをやめたい。
てか、なんなら別にやめてしまってもいいのではなかろうか、と自然に思う。(欲がなさすぎるのだろうか?)
目的、理由、、そういうものに僕は踊らされがちだし、強迫的に過ぎるし、哲学的すぎる。
自殺と仲良しだし、快楽を避けがちだし、苦悩や修行を好みがちである(さっきから、がちがちいいがちである)。
僕はそれで、数学という活動というものを得た。数学は人生の目的になり得るし、生活の指針になり得るし、生きる意味になり得る。
そして、生活は充実する。
だから、数学は私の性格の傾向(私がなりがちなこと)の処方箋として非常にいい機能を果たす。
数学は十分に哲学的だし、かつ科学的だし、美しいし、修行的な側面は中々に強いし、進化していくし進歩するし、そして神秘的でもある。完璧である。完璧だ(完璧やん!)
し か し
1つ文句があるとすると、なんで、社会的に数学は広まってないねん!なんで、こんなに素晴らしいものが、世間に一般に認知を受けてないねん!なんで、知ってても複素数体までやねん!なんで複素数体を入力しようとして、ひらがなから漢字に変換するとき、予測変換の1番上に複素数体がないねん!
なんでやねん!!社会はなんのためにあんねん!!
そう。
私の生きている意味と社会のある意味が、どうも、一致していない。